1時に起床。シャワーを浴びる。ダンガンロンパ3を観る。
最近は心がひどく痛んでいる。あと、まだ眠気で夢見心地なのかもしれない。アニメにいつもより深く感情移入していた。そして、自分の現実と比べてしまった。さっきから七海千秋が俺の現実にいてくれたらって、支えてくれたらって、そればかりが頭の中を巡って、気持ちを悲しくさせる。確かに自殺をする必要がないことは理解している。それでも、こんな身体じゃあ、生きていくのが辛い。すぐに体調を崩し、すぐに抑うつ的な気分になる脳。もういやだ、こんな身体。幸福感を得たい、そしてそれはきっと無理なんだ。

気絶したい、か。

なんだか救われた気分がするな。別に俺は死ななくていいし、死ぬ必要性もなかったんだ。

つらいことがあれば長時間睡眠を心がけたり、できるだけ意識を落とすことを意識すれば良い。我慢できないなら逃げて、ひたすら残りの人生のほとんどを気絶して過ごせば良いんだ。少なくとも死ぬことなんてしなくて良いんだよな。

「しにたい」ではなく「気絶したい」が正確では?

「しにたいと思うくらいの状況なら、さっさとそんなところから逃げちゃえば良い」

って思ってるのに

「逃げればいまよりももっとつらくなる」

って思いがあって、結局逃げられない。

 

「いくら”逃げたらもっとつらくなる”って言ったって、自○するよりはましじゃん。だからさっさと逃げたほうがいいよ」

って思ってるのに、

やっぱり逃げた後のことを考えて不安になって逃げられない。

それで自○しちゃう人がたくさんいると思う。

 

 

人によっては矛盾を感じたと思う。なぜ逃げずに自○する?と。

 

 

ここで俺がはっきりさせなきゃいけないと思ったのは「自○するよりはましじゃん」っていうこの一文。

正直自○って言葉を聞くと背筋が寒くなったりするよね。でもね、たぶんしにたいってのは、別に心臓を止めて体をぐちゃぐちゃに腐らせたいとかそんなえぐい状態になりたいってことじゃないはず。そこが魅力では決してないと思うんだよ。

 

 

しにたいの本当の意味は「何も感じたく無い。ただ、眠ってる時のように楽になりたい」ってことなんだと思う。

つまりだ。おれはしばらく”気絶”したいんだ、と。”気絶”した人が今の僕・私の目にはとても魅力的にうつるんだ、と。冬眠みたいな機能が人に標準実装されてたら良いのになあ、みたいな。

 

 

”辛い”を何とかしたい。解決したい。でも難しくてどうすればいいのかいまいちわかんないから、逃げたい…って思ってて。でも逃げた後の自分を想像してみてもやっぱり自分は辛そうだし、それにやっぱり逃げるの怖いし。

 

そうこうしているうちに、ああ、しばらくの間ずっと気絶していたいな、気絶できないかなと思う。

とにかくしにたいって言ってる人は腐るほどいるけど、きっと彼らは「気絶したい」を、「手段その1」である”しにたい”というワードで言い表してるだけなんだと思うよ。そう考えたら自○したいよりも明るいものじゃないか。気絶したい、だなんて。

誰でも言葉にするほどはっきり認識できないだけで、気絶したい、みたいなことは一度は思うだろう。何も考えたくない、とか、楽になりたい、とか、もう寝よう…、とかいう意味のことだ。

だから今度からしにたいって思う時は「気絶したい」って思うようにしないか。俺は本当はしにたいんじゃなくて、しばらく気絶していたいんだなって。睡眠時間を伸ばせば良いんだよ。

あとは「ニューアース」って本を読んで、常日頃我々が行なっている頭の中のおしゃべり(思考)の害悪性の側面を知って瞑想を始めるってのも、とても良い手だと思う。気絶したいという思いというのは、より正確に言うと「自分を否定・批判するネガティブな思考を止めたい」っていう要請に他ならないわけだしね。

俺が社会に出ずに誰とも交流せずひとりぼっちで部屋に引きこもっても、時間は勝手に進む。つまり俺がいなくても、人類の歴史は勝手に進んでいく。
また、他ならぬ俺にこれをやってほしいと思ってくれていることなんて1つもない。俺がやらなくても73億人の誰かがやるし、難なくできる。
また、俺の命に関心あるやつは誰もいない。もっと言うと俺の命が続いてほしいなんて思っているやつは1人もいない。別に生きてても死んでてもどっちでも良い存在。
俺には、生まれてきた意味、俺じゃなきゃいけない理由、人生の使命、特別な何か、なんてのは何1つない。俺はこの宇宙でどうでもいい存在。お前はかってに生きてかってにのたれ死んでろってこと。これからの人類の長い歴史から比べればホコリのようなちっぽけな時間を生きたらそのままのたれ死んで消滅する。消え去る。完全に消滅する。最低でも一世代交代すれば俺の生きた証はすべて消え去り忘れ去られ、完全に消える。無常だ、この世界は。
だからこそ俺は、死の瞬間に生まれてきてよかったと思えるにはどうすれば良いのか、難しいことだからこそ真剣に考えなければならない。すべてはこの内面で決まる。