「しにたい」ではなく「気絶したい」が正確では?
「しにたいと思うくらいの状況なら、さっさとそんなところから逃げちゃえば良い」
って思ってるのに
「逃げればいまよりももっとつらくなる」
って思いがあって、結局逃げられない。
「いくら”逃げたらもっとつらくなる”って言ったって、自○するよりはましじゃん。だからさっさと逃げたほうがいいよ」
って思ってるのに、
やっぱり逃げた後のことを考えて不安になって逃げられない。
それで自○しちゃう人がたくさんいると思う。
人によっては矛盾を感じたと思う。なぜ逃げずに自○する?と。
ここで俺がはっきりさせなきゃいけないと思ったのは「自○するよりはましじゃん」っていうこの一文。
正直自○って言葉を聞くと背筋が寒くなったりするよね。でもね、たぶんしにたいってのは、別に心臓を止めて体をぐちゃぐちゃに腐らせたいとかそんなえぐい状態になりたいってことじゃないはず。そこが魅力では決してないと思うんだよ。
しにたいの本当の意味は「何も感じたく無い。ただ、眠ってる時のように楽になりたい」ってことなんだと思う。
つまりだ。おれはしばらく”気絶”したいんだ、と。”気絶”した人が今の僕・私の目にはとても魅力的にうつるんだ、と。冬眠みたいな機能が人に標準実装されてたら良いのになあ、みたいな。
”辛い”を何とかしたい。解決したい。でも難しくてどうすればいいのかいまいちわかんないから、逃げたい…って思ってて。でも逃げた後の自分を想像してみてもやっぱり自分は辛そうだし、それにやっぱり逃げるの怖いし。
そうこうしているうちに、ああ、しばらくの間ずっと気絶していたいな、気絶できないかなと思う。
とにかくしにたいって言ってる人は腐るほどいるけど、きっと彼らは「気絶したい」を、「手段その1」である”しにたい”というワードで言い表してるだけなんだと思うよ。そう考えたら自○したいよりも明るいものじゃないか。気絶したい、だなんて。
誰でも言葉にするほどはっきり認識できないだけで、気絶したい、みたいなことは一度は思うだろう。何も考えたくない、とか、楽になりたい、とか、もう寝よう…、とかいう意味のことだ。
だから今度からしにたいって思う時は「気絶したい」って思うようにしないか。俺は本当はしにたいんじゃなくて、しばらく気絶していたいんだなって。睡眠時間を伸ばせば良いんだよ。
あとは「ニューアース」って本を読んで、常日頃我々が行なっている頭の中のおしゃべり(思考)の害悪性の側面を知って瞑想を始めるってのも、とても良い手だと思う。気絶したいという思いというのは、より正確に言うと「自分を否定・批判するネガティブな思考を止めたい」っていう要請に他ならないわけだしね。