無条件に自分を愛する
無条件に自分を許し、受け入れ、愛する。
最近意識し始めた考え方だ。
これから僕が生きる上でとても大切な考え方に出会えたと思っている。
自分を愛することに条件づけをしていた これまでの僕の考え方は、間違いとまでは言わないがかなり生きにくいものだったように思う。
情けなくても 立派じゃなくても そんな自分を心の中で否定せず許し 愛することが 気楽に生きていくうえで必要な考え方なのだと今は思えている。
それは同時に 期待や希望といったものは持たないことも意味する。
つまり 期待する時点で どんな状況 どんな自分も無条件で愛してはいないということだからだ。無条件とは いまの自分に対して だけではなく
どこで何をしているのかまったくわからない 行方不明な未来の自分に対しても ということなのだ。
もちろんこのような考え方をナチュラルに持ってなかった僕が100パーセントこの考え方に染まることなんて無理なことだろう。
でも 物事は100か0か 有るか無しか ではない。程度というものがある。
無条件に自分を愛する。この考えを自然になじませることを目指していこうと思う。
どこかを目指し行動することに一生懸命になる前に それ以前のまだ行動に移していない自分をそもそも否定せずに愛していることが自分を責めないコツであると大勢の人たちに受け入れられたら もっと人の世はらくになるのかもなぁ。そんな時代は来ないだろうけど。
パワポケ6の思い出
パワポケ6をプレイし
まだ小学生だった僕は
死の怖さや 消える命の儚さ、むなしさを少し理解したように思う。
タイムパトロールとして未来世界から現代にやってきた主人公は
ラストで未来へと帰る(ルートもある)。
未来に帰った主人公のアルバムでのセリフは
BGMの効果もあり
僕の心をひどく揺らした。
未来へ帰った主人公はタイムトラベル先で出会った人たちを思い返し 次のような心情を漏らす。
ともに過ごしたみんなが、遠い遠い昔にすでに死んでいる人たちだなんて、とても信じられない。もし望みが叶うなら、もう一度彼らに会いたい。だけど、それは叶わないだろう。
たしかそういう内容だった。
今ならタイムトラベラー特有の悲哀に注目してちょっぴり同情したりするのだろうが
当時の僕は純粋に死を意識した。
ゲーム本編で登場した気の良いおじさんやクセのある相棒、可愛い高校生の女の子は”すでに大昔に死んでしまった人たち”…。
アルバム再生時に出てくる こちらへ向ける彼らの笑顔が上記の事実により
ひどく悲しく寂しく儚いものに感じた。
タイムトラベラーが未来で 現実に実在するようになるのかは分からないが もしそのような人たちが出現するようになるとしたら きっと彼らはこのような複雑な思いで”既に死んだ人たち”と接するのだろう。
また 裏サクセスで勝手がわからずにバッドルート直行で島の兵隊に処刑された時。
あまりにもなすすべもなく
あまりにも一方的に
処刑場で射殺されてしまったことに子供の僕はただ恐怖し
急いで父が昼寝している布団に駆け寄り頭から毛布を突っ込んだ。
そうすると そばで寝息を立てている父の死さえもまざまざと意識してしまった。
さらに恐怖は募りただただ涙を目に貯めて父の近くで震えるのみだった。
無力に されるがままに 一方的に何かを奪われるのは とても怖いことだ。
■
もしできるなら、犯罪をした人と身体を入れ替われたらと思う。苦しくてしょうがなくなるだろうね、そいつ。
くだらない妄想だ。
■
やっぱり孤独感や疎外感を感じる。
でもこれもきっと波があるんだろうな。
今日は気晴らしに簡単な料理でもするか。
■
気絶したい、か。
なんだか救われた気分がするな。別に俺は死ななくていいし、死ぬ必要性もなかったんだ。
つらいことがあれば長時間睡眠を心がけたり、できるだけ意識を落とすことを意識すれば良い。我慢できないなら逃げて、ひたすら残りの人生のほとんどを気絶して過ごせば良いんだ。少なくとも死ぬことなんてしなくて良いんだよな。
「しにたい」ではなく「気絶したい」が正確では?
「しにたいと思うくらいの状況なら、さっさとそんなところから逃げちゃえば良い」
って思ってるのに
「逃げればいまよりももっとつらくなる」
って思いがあって、結局逃げられない。
「いくら”逃げたらもっとつらくなる”って言ったって、自○するよりはましじゃん。だからさっさと逃げたほうがいいよ」
って思ってるのに、
やっぱり逃げた後のことを考えて不安になって逃げられない。
それで自○しちゃう人がたくさんいると思う。
人によっては矛盾を感じたと思う。なぜ逃げずに自○する?と。
ここで俺がはっきりさせなきゃいけないと思ったのは「自○するよりはましじゃん」っていうこの一文。
正直自○って言葉を聞くと背筋が寒くなったりするよね。でもね、たぶんしにたいってのは、別に心臓を止めて体をぐちゃぐちゃに腐らせたいとかそんなえぐい状態になりたいってことじゃないはず。そこが魅力では決してないと思うんだよ。
しにたいの本当の意味は「何も感じたく無い。ただ、眠ってる時のように楽になりたい」ってことなんだと思う。
つまりだ。おれはしばらく”気絶”したいんだ、と。”気絶”した人が今の僕・私の目にはとても魅力的にうつるんだ、と。冬眠みたいな機能が人に標準実装されてたら良いのになあ、みたいな。
”辛い”を何とかしたい。解決したい。でも難しくてどうすればいいのかいまいちわかんないから、逃げたい…って思ってて。でも逃げた後の自分を想像してみてもやっぱり自分は辛そうだし、それにやっぱり逃げるの怖いし。
そうこうしているうちに、ああ、しばらくの間ずっと気絶していたいな、気絶できないかなと思う。
とにかくしにたいって言ってる人は腐るほどいるけど、きっと彼らは「気絶したい」を、「手段その1」である”しにたい”というワードで言い表してるだけなんだと思うよ。そう考えたら自○したいよりも明るいものじゃないか。気絶したい、だなんて。
誰でも言葉にするほどはっきり認識できないだけで、気絶したい、みたいなことは一度は思うだろう。何も考えたくない、とか、楽になりたい、とか、もう寝よう…、とかいう意味のことだ。
だから今度からしにたいって思う時は「気絶したい」って思うようにしないか。俺は本当はしにたいんじゃなくて、しばらく気絶していたいんだなって。睡眠時間を伸ばせば良いんだよ。
あとは「ニューアース」って本を読んで、常日頃我々が行なっている頭の中のおしゃべり(思考)の害悪性の側面を知って瞑想を始めるってのも、とても良い手だと思う。気絶したいという思いというのは、より正確に言うと「自分を否定・批判するネガティブな思考を止めたい」っていう要請に他ならないわけだしね。