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瞑想が社会で生きる人間に合っている理由

言葉がなければ、争いを避け平和的秩序を得るには暴力的な威圧をするしかなかった。暴力的な実行力を見せつけることによって報復による生命の危機や苦痛の予期をさせ、自身の暴力を抑えることを期待する、というやり方しかなかった。
言葉があれば、争いを避け平和的秩序を得るのに最終的には暴力を用いることは変わらないとしても、それ以前の段階で、そこからはみ出せば言葉により非難されるたぐいの規範を説く”言葉”による抑止が可能だ。上手くやれば、平和的秩序を保つ営為へのより強い存在の介入も言葉を使うことにより防げることが期待できる。

このように、言葉と、それに従う人の理性というのは、使い方次第ではとても善なるものだ。しかしやりすぎると社会成員は常に頭の中で自己否定を行い(頭の中のおしゃべり)、それゆえいつまでたっても幸福感や安心感を感じられず、その社会は人を幸せにしない社会となる(まさに日本)。これでは本末転倒だ。

 

そこで、言葉の影響力(つまり理性の過度な働き)と、本能全般(特に暴力的本能)を弱める効果が期待できる瞑想を社会で生きる人に推奨することは、とても理にかなっているのだ。こうすることで、安定的に物質的に豊かになった現代人は、安定的に精神的な幸福さえも手にすることになるだろう。

偶然道行く誰かに「キモッ」と言われるたったそれだけでのことで、数日間は気分が絶望のどん底に落ちてしまうような精神的に不安定な状態の人でも、瞑想等のトレーニングにより安定したものへと変えることができる。トレーニングを行わない人というのは、それだけ外部に左右される危ない綱渡り(落ちたら絶望という闇に真っ逆さま)を日々し続けてるようなものなのだ。

頭の中のおしゃべり(思考)の害悪性の側面を知りたい人は、「ニューアース」って本を読んだら良いよ。

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