全体(宇宙)という、決して無くならず永遠なもの

ある人にとっては善でも、別の人にとっては悪だ…、という相克が生命の創造時に設計されているため、自然の維持に悪は必要であり、善悪の表裏をとり込んだ解析が必須…。(兎を狩る狐にとって狩猟は善でも、狐に狩られる兎にとって狩猟は悪)

 

 

 

 


…確かにその通りだ。人に善悪という観念があるのは確かだ。そしてその前提として考えられるのは、脳が出来上がっていく段階で「苦を感じさせるシステム」が設計されてしまい、それによって苦を意識に味わわせるような脳を、『全体(宇宙)の相互作用の中』、生み出されてしまったこと。つまりこれが人の持つ観念のそもそものはじまりなのだと私は思う。たとえば人は「悪」という観念を、たとえば「嫌い」という観念を、たとえば「憎しみ」という観念などを、これらのような観念を作ることは実は自動的なことだったのだろう思う。


余談となるが、この身体・脳に宿る私としては、また全体(宇宙)を構成する一つの構成要素としての私としては、たとえば紛争地ですべてを奪われ蔑ろ(ないがしろ)にされ想像を絶する苦しみを味わわさせられている人々のことを考えると、『こんな脳をつくったうえで意識を出現させるという行ないをする全体(宇宙)は、理不尽と押し付けに満ちた、悪意そのもののようなものだ』と憤(いきどお)ってしまう部分もあるが、でもけっきょくはそういう現実なのだから、仕方がないことなんだろうなと諦めてる部分も私にはある。
でも最近、クリシュナムルティエックハルトトールが言っているような考え方に出会った。私自身、出会えてよかったと思うし、これから人が生きる上で、とても重要な考え方が生まれていたのだな、と信じている。
http://book.geocities.jp/ishiinbr2/book/satori.htm


全体(宇宙)という、すべてを内包するもの、すべてを囲む”枠”、はいつも「ただ在り」、
そしてその全体(宇宙)の”中身”は今日も今日とて流動し、混じり合い、常に変革しながら時の流れに身を任せている。
全体(宇宙)という決して無くならない枠の中で、そして”いま”という永遠に続く土台の上で、中身は永遠と蠢(うごめ)き続けるのだろう。このような世界の意義はあるのか、それとも世界は”ただ在る”だけなのだろうか。

 

これが円ではなく上空へと昇る螺旋であることを願っている私が心のどこかにいることを感じた。まあ、この身体・脳はそうなっているのだろう。