「嫌われる勇気」をまとめてみた。

この本を書いた人が読者である私たちに提案している生き方。

それは、『「みんな」に貢献しているときのあの嬉しい感覚を、日々持って生きましょう。しかも他人からの承認をそのあいだに介することなく!(←ここ大事!)』というものです。

 

これを表現を変えて説明すると…

行為  「→」  貢献感   

この「→」のところに他者の承認をぜったい挟むなよ!いいな!  ということが「嫌われる勇気」という本の提案です。つまり主観だけの貢献感でいいじゃん(いいじゃん)ということです。おそらく。

 

結局ね、他人からの承認なんてその人次第なんだからさ、その人が好き勝手あれこれ判断することに僕らは何も口出すことができないわけです。他人からの評価なんて君の力が及ぶところではないのです。厳しい物言いに聞こえるかもしれないけど、じつはそれってつまり、君はシンプルに自分次第なことだけを粛々とやってればいいってことなんだよ。他人からの承認なんていう気まぐれですぐに風向きの変わるいい加減なことに君のその優しい心が右往左往されちゃってはいけない。どんなことを他人から言われようとも、どんなことを他人から思われようとも、

「それはその人の問題だ」と他人からの承認を突き放して距離を置き、そんなことをしつつも君は、「ここにいてもいいんだ」という所属の安心感を得るために自分次第なことだけをシンプルにやってればいい。他人からの評価なんて軽く扱い、主観だけで「また貢献しちゃった♪キャハッ」とか言ってよろこんでおればそれでよろしい。全然OK。重いことは考えらんでいい。

というのがこの本の要約です。「嫌われる勇気」とか書いてるけど、これはつまり

相手が俺に向ける「好き」とか「嫌い」なんてのは結局その人次第じゃーん。それをなんとかしようって思って頑張る必要なくねー。そいつのさじ加減じゃねーか、無理だろ、あほらし。…俺は誰かに「好き」って言われるために生きてんじゃねーよ。ただ、『この世界は全部俺の仲間だ」ってテメェ勝手に思いてぇだけだ…

ってことだと現時点では解釈している。

まあ元の本は読んどいた方がいい。僕の理解力の低さにより本の内容と乖離しているところもあるだろうし、上の要約だけじゃぼんやりとしか理解できないだろうし。

 

ころころ変わるこの感情こそが結局のところ人生のすべて

他者や場所や理由や内容や目的や意義や五感で認知した事物(ことやもの)自体には何もない。そういうかたちがただ脳の中にあるだけ。

 

悟った人間はどうやら違うっぽいけど、俺たち一般人の感覚からしたら結局人生は自身の感情が全てのように思える。世界はそれを誘発することはすれど、その実、それ自体の価値はあまりない。つまり他のものや人を代替え要員としていくらでも抜けたところにはめ込むことができる。

 

人は、ものや他人に執着してるんじゃなくて、本当はそこから誘発される感情に執着しているんじゃないのかな。ものや他人自体は「正直なんでもいい」んじゃないのかな。案外、ものや人ってのは、代わりはいくらでもあるんじゃないかな。

 

必要なのは感情と、あといまここの身体感覚、この2つから目を逸らさないこと。しっかり見つめること。受け入れること。認めること。そしてそこに、思考の介入はいらない。

そして忘れちゃいけないのは、どんなにひどい感情の時だって、そう感じることができているあなたが世界に存在しているだけで、たったそれだけで絶対的な価値があるんですよってことだと思う。たったそれだけのことで自分は世界に貢献しているんだって確信してなんか知らんけど有能感を感じることがコツです。

 

頭の中をごちゃごちゃさせずに、シンプルで気軽な毎日を送りたいものですね。世界を複雑にとらえると、どんどんしんどくなってくるしな…。

ほんのたまにだけ理解できるこの感覚

どんな部分も、全体に組み込まれるようにできている。だから、それ自体の未完成から逃れられる。

レオナルド・ダ・ヴィンチ

 

すべては、すべてから来る。すべては、すべてから創られ、すべては、すべてに戻っていく。すべては、すべてに包み込まれる。

レオナルド・ダ・ヴィンチ

 

あらゆるものの部分は

それ自身のうちに全体の性質を保っている。

 

- レオナルド・ダ・ヴィンチ -

 

あらゆるものは、他のあらゆるものと関連する。

 

- レオナルド・ダ・ヴィンチ -

全体(宇宙)という、決して無くならず永遠なもの

ある人にとっては善でも、別の人にとっては悪だ…、という相克が生命の創造時に設計されているため、自然の維持に悪は必要であり、善悪の表裏をとり込んだ解析が必須…。(兎を狩る狐にとって狩猟は善でも、狐に狩られる兎にとって狩猟は悪)

 

 

 

 


…確かにその通りだ。人に善悪という観念があるのは確かだ。そしてその前提として考えられるのは、脳が出来上がっていく段階で「苦を感じさせるシステム」が設計されてしまい、それによって苦を意識に味わわせるような脳を、『全体(宇宙)の相互作用の中』、生み出されてしまったこと。つまりこれが人の持つ観念のそもそものはじまりなのだと私は思う。たとえば人は「悪」という観念を、たとえば「嫌い」という観念を、たとえば「憎しみ」という観念などを、これらのような観念を作ることは実は自動的なことだったのだろう思う。


余談となるが、この身体・脳に宿る私としては、また全体(宇宙)を構成する一つの構成要素としての私としては、たとえば紛争地ですべてを奪われ蔑ろ(ないがしろ)にされ想像を絶する苦しみを味わわさせられている人々のことを考えると、『こんな脳をつくったうえで意識を出現させるという行ないをする全体(宇宙)は、理不尽と押し付けに満ちた、悪意そのもののようなものだ』と憤(いきどお)ってしまう部分もあるが、でもけっきょくはそういう現実なのだから、仕方がないことなんだろうなと諦めてる部分も私にはある。
でも最近、クリシュナムルティエックハルトトールが言っているような考え方に出会った。私自身、出会えてよかったと思うし、これから人が生きる上で、とても重要な考え方が生まれていたのだな、と信じている。
http://book.geocities.jp/ishiinbr2/book/satori.htm


全体(宇宙)という、すべてを内包するもの、すべてを囲む”枠”、はいつも「ただ在り」、
そしてその全体(宇宙)の”中身”は今日も今日とて流動し、混じり合い、常に変革しながら時の流れに身を任せている。
全体(宇宙)という決して無くならない枠の中で、そして”いま”という永遠に続く土台の上で、中身は永遠と蠢(うごめ)き続けるのだろう。このような世界の意義はあるのか、それとも世界は”ただ在る”だけなのだろうか。

 

これが円ではなく上空へと昇る螺旋であることを願っている私が心のどこかにいることを感じた。まあ、この身体・脳はそうなっているのだろう。

 

rewriteセカンドシーズン面白い

泣いたわ。この次元でこの世界の知識の全てを知ると愛・人の感情も含めてこの世全てが無意味に思えて絶望したのに、もっと高い次元へとどんどん昇っていくと愛があったなんて。なんて美しい世界設定なんだ。この世に生まれたこと、それだけで祝福される世界なんだろうな。

 

いまに在るには

いまに在るには。

目に意識を注入しよう。

耳に意識を注入しよう。

鼻に、舌、皮膚に。

これらはいましか分からない。外の世界に、いま以外の風景、いま以外の音なんてものは存在しないからだ。

いま以外に浮気する唯一のものこそ、思考なのではないだろうかと僕は思う。思考だけは、いま以外に飛び出していくことが可能だ。

対して五感は決していま以外には飛び出さない。もし仮に、たとえば昔見た風景が目の前に現れたと感じたなら、その風景は思考の罠にはまってしまっていることをあなたに教える。記憶のみせる風景を「思い出している」に過ぎないことに気付こう。