いまに在るには

いまに在るには。

目に意識を注入しよう。

耳に意識を注入しよう。

鼻に、舌、皮膚に。

これらはいましか分からない。外の世界に、いま以外の風景、いま以外の音なんてものは存在しないからだ。

いま以外に浮気する唯一のものこそ、思考なのではないだろうかと僕は思う。思考だけは、いま以外に飛び出していくことが可能だ。

対して五感は決していま以外には飛び出さない。もし仮に、たとえば昔見た風景が目の前に現れたと感じたなら、その風景は思考の罠にはまってしまっていることをあなたに教える。記憶のみせる風景を「思い出している」に過ぎないことに気付こう。

人はただ在る 欠けているとか不完全なんてものはない

今ここに在るあなたは、在るというだけで完全だ。それだけで足りている。

街路に植えられている樹がただ在るだけで完全なように

人もただ在ることのみで完全なのだ。

人はどこかにいく必要はなかった。人は何かになる必要がなかった。人はそもそも何をしてもいい。なぜなら、ただ在ることで、もはや全てが足りてるからだ。

部屋の片隅に座り日がな一日ただ静かに過ごしてても、その人は完全。社会で誰かと何かをして過ごしていてもその人は完全。何をしていても完全。

生命にとって選択肢になど重大な意味はそもそもあるはずがなかった。選択肢以前が大切なんだ。人は何かを選ぶその前にすでに足りていたんだ。

エックハルトトールのことばに救われた

エックハルトトールのことば

シンプルに、連続的に、あなたの意識を「いまここ」この場、この場そのものに住まわせておくのです。そしてこの世に起こることをあるがままに起こさせておくのです。よいのです。素晴らしいことです。形あるものは、あるがままに行ったり来たりさせておくのです。形あるもので長く留まるものは一つもありません。形あるものはすべて、出ては消え それを繰り返しているのです。出てくるものは出させておくのです。あなたは、あなたの周りで戯れる形を楽しめばよいのです。そうなったら失うことへの恐れもなくなります。なぜ失うことへの恐れを抱くのか?それは、あなたがあるもの・あることに自分を結びつけているからなのです。だから、それを失ったらどうしよう 『私』の一部を失ったらどうしようと そこに恐れが生まれるのです。
あなたがもしあるがままを受け入れたら、恐れは去っていきます。なぜなら、出来事・現象はそれほど重要なことではなくなるからです。形あるものに過ぎないからです。形あるものの生命は短いものです。単に目に見える現象の戯れに過ぎないからです。宇宙が形を使って遊んでいるのです。宇宙が形あるものを使って戯れているのです。自由に遊ばせておけばよいのです。そしてあなたもその形あるものの遊びに一緒に参加していればよいのです。
https://m.youtube.com/watch?v=9b18sc4BbOw

三年前からこのサイトを

三年前からこのサイトをちょいちょいみてたけど、最近特によく読むようになった。けっこういいな。いや、かなりいい。

このサイトの受験勉強の方法論の記事をみてそれを宅浪のなか実践してみて結局うまく机に向かえなくて自己否定して。その自己否定を原動力に机に向かおうとするけどまたしても机に向かえない(笑)

結局どこまでいっても机に向かえず自己否定の螺旋を登ってきた俺が入学したFラン大学もはや二年の冬。この一年は特に自分の精神とかについてひたすらあがいて何かいい心構えをつかもうとしていた。その一環でふと読んだ。たぶんここら辺の記事がこのサイトの真骨頂だったんだなぁ。人の精神に対する良い気づきをたくさん得ています。こんなの、俺1人では決して気づくことのできなかった深層の感覚だわ。このサイトの記事を感覚レベルで理解できているのは、何よりも幸福に思う。今まで良い気分になりたいとめちゃくちゃにあがいてきてよかった。もちろん今感じている高揚感もすぐに移り変わるものだとわきまえている。

 

別に、カルトな記事ではないよ!なるほどなぁと気づけることも多いと思う。文章もユーモアがあってけっこう楽に読める。

 

http://www.6rou.net/envi_syumi00.html

屍者の帝国を観た

なんか普通だった。期待しすぎたな。残念。

終末のイゼッタ、なんか良いよね

終末のイゼッタ、なんか良いよね。

現在にも知恵の回る人はいるだろうけど、過去にも当然にそういう人らはいて

時代に翻弄されながらも必死に知恵を絞ってがむしゃらに動き回って乗り切ろうとする彼らの姿。

あと、やっぱり時代的な問題で(個人的な問題ではない。どれだけ切れ者でもやはり限界がある)その人たちの認知能力とか発想力には限界があって、それでも頭を回して必死に乗り切ろうと悩みまくるあの感じ。

なんかそういうのが心にクルよね。そのあり方が美しいというか。

 

知能信仰はだいぶおれの中から消せたと思ったけど、やっぱりこべりついてるなとも思う。

頭がいいからって何だ!結末が見えてる歴史の中で必死に未来を模索している過去の人間達を眺めるのは、知能とかそんなの関係なく美しいと感じる、それは本当なんだ。

おれは21世紀を生きていた名もなき人間として死後注目されることは残念ながらないような感じだけど、この時代を生きた僕らはたとえば百年後のみんなにそういう風に思ってもらえるのかな。

君らは結末を知ってるから「こいつらくだらねえな」とか「こいつらバカだな」とか「なんでこうこうこういうふうにしねえんだよ。がんばればもっと上手くやれるだろ!」とか思うかもしれないけど、この時代に生きる俺としては「これからどうすればうまくいくのか、結局のところわからない」ってのがやっぱり大きいんだよ。この時代にももっともらしく社会に対する見解を述べる流行りの評論はたくさんあるけど、君らからしたらどこかまとが外れているように思えるのかもしれない。でも、結局そういうもんだよ。みんな、結局のところこれからどうなるのか全くわからないんだよ。全部手探りの、模索状態。それは、今の君らにも共感できる感覚なんじゃないの。俺はそこらへんが過去の歴史の人間を見てると心にクル理由だと思う。共感してるんだと思う、その模索している姿に。あと美しいとも思うな、なんか一生懸命生きてそうな感じがするし。

 

とにかく、俺はそういう風に観ているから終末のイゼッタはとても良いって思うんだ。

ゴールはたぶん悲劇になりそうなんだけど、てか戦争してる時点で犠牲は必ずあるから悲劇が起こらないはずがないんだけど、その絶望の結末に向かってるのとは対称的な”なんとか笑える未来を模索していこうとしているその姿勢”がとても美しい。人間って美しいなって思う。やっぱり結末を知ってるってのが大切なのかもね。暗い結末ってのも良いのかも。『暗い結末・破滅に着実に進んでいくひたむきで眩しい人たち』ってなんか良いよね。