「プロジェクトぴあの」
プロジェクトぴあのという小説の第1章を読んでみた。
結構面白いぞこれ。
明日から少しずつ読んでいこう。
「ローゼンメイデン」
中学2年の二学期から僕はいじめを受けていた。
それはまだ二学期が始まったばかりの9月からで、冬になる頃には精神的に、かなりきていた。
その頃(特に思春期なんて人生で1番感受性が高い時期に)、偶然出会ってハマっていたのがローゼンメイデンだった。
主人公との境遇は少し重なる部分もあったし、登場するキャラは皆とても魅力的に思えたから、あの作品に熱中したんだと思う。
その当時は、超本気でその創作上の世界に逃げていた。全話を何度も何度も食い入るように見た。心のどこかで、何度も見たらこの世界に入っていけるような気がしていたから。そして、そのアニメの中で動いてるキャラクターだけでなく、背景にこそ注目した。できるだけその世界に入り込めるように。そしてその世界の空気のにおいを嗅ぎたかった。
また、学校をサボって午前中ノートパソコンでネットに書かれたローゼンメイデンのSSを読み漁り、出来の良いのに出会えば、できるだけその世界に没入し、鮮明に情景を想い起こし、特にその世界の空気のにおいを感じようと(感じた気になろうと)躍起になった。僕は、昔から創作の世界のにおいを嗅いだ気になれる特技めいたものがあったから。上手くいけば実際に嗅覚が刺激されるんだが、もしかするとみんなもできる普通のことかもしれない。
こうやってとことん辛い学校から”心だけは”逃げようとしていたし、何なら、創作の世界が自分の現実の世界に出現してほしいと本気の本気で願っていた。それが叶わないなら、せめて、たまたま僕が知らない隠れた場所で、ひっそりと創作の世界の出来事や生活が行われてほしいと願っていた。僕は知らなくていいから、どうか、って。
そのうちに。「…いや、もしかしたらあの空と彼らの空は続いてるのかもしれない。僕が知らないだけで、あの空と同じどこかの空の下に、いるのかも。あのキャラたちが今この時もだれにも知られずに暮らしているのかも。あのキャラたちは、僕が知らないだけで、僕の生活とは比べ物にならないほど綺麗で朗らかで心地よい生活を過ごしているんだ。」なんてことばかり想うようになってしまった。何となく、現実世界に彼らが生きていることを思うと、僕の毎日が救われたような感覚がしたからだ。
おまけにひどい時は雨の日に雨宿りしながら、どこかで”僕を見ているはずの”キャラに、ぶつぶつと声を出して語りかけていた。心の声だけじゃあ、いつもやってるし足りない気がするから、より確実に、ちゃんとした肉声を出せば、彼らにもしかしたら届くのかもとなぜか思い込んで、現れてくれよとか助けてくれよみたいなことを延々と雨の中呟いてたような気がする。たまに泣きかけた。
氷菓第2クールオープニング『未完成ストライド』
深夜のテンションなんやろうけど
氷菓の第2クールのオープニングみてたらガチでちょっと泣けてきた。
高校時代にものすごく思い入れがあったアニメやし、オープニングは腐るほど繰り返し見てたし、学校の帰り道でガラケーにイヤホンさして聞きながら歌詞の意味をぼんやりとこうじゃないか、ああじゃないかと考えてたのもあって
少し間を空けたいまに改めてオープニング見て、じわーっと感動してる。
歌詞の内容がバシッとしてなくて、抽象的でよくわからんところもあったんやけど
その意味がいまなんとなく心で感じる実感としてわかってきた(つまり、歌詞に自分の経験や感じてきた感情を重ねて共感できるようになった)ような気がして
それでその時に高校時代に聴いてた時に歌詞の意味を(人生経験的な理由で)まだ実感としてわかるはずもないのに、こういうことなのかとか考えてた頃の自分が浮かんできて、なんか切ないようなよくわからない感動をしている。
ありがとう、製作者達。
ダンガンロンパ3 絶望編
つらすぎる。観ててつらすぎる。
絶望で終わる物語か…。
俺は日向・七海というキャラクターが好きだ。
あの2人の関係が本当に好きだ。
俺は原作ゲームをやっていないから、日向がこれからどうなるかは詳しくは分からんが、
絶望に堕ちることだけはオープニングの江ノ島を見てたら分かる。
絶望に堕ちる前の彼は劣等感にさいなまれてはいるが、ちゃんと常識的な感性を持っているし、一般人以上には正義感も備えている、ただの善良な性質の生徒なんだ。
本当に、普通にいいヤツなんだ。
だが、もうこれからは終わりが始まるんだな。つらいが観よう。1・2リロードも買ってプレイする。日向のおはなしがどういうラストを迎えるのかをちゃんと見たい。
どうしてこんなにもダンロン3の日向を始め絶望編のキャラに好感を持ったのかを考えてみると、
きっと世界をめちゃくちゃにした彼らの
まだコトを起こさなかった頃とのあまりのギャップ。その意外性(未来での非道な行いと過去での皆の常識的な感性とのギャップ)に惹かれてるんだなきっと。それと、視点の立ち位置的に過去の方に主軸があるからいいんだよ、絶望編は。未来から少し時間を割いて過去をノスタルジックに思い返すんじゃなくて、現在進行形で”いま”として描いてるから良いんだよ。ああ、こいつらはこれからやばいことになっちゃうんだなって。
無条件に自分を愛する
無条件に自分を許し、受け入れ、愛する。
最近意識し始めた考え方だ。
これから僕が生きる上でとても大切な考え方に出会えたと思っている。
自分を愛することに条件づけをしていた これまでの僕の考え方は、間違いとまでは言わないがかなり生きにくいものだったように思う。
情けなくても 立派じゃなくても そんな自分を心の中で否定せず許し 愛することが 気楽に生きていくうえで必要な考え方なのだと今は思えている。
それは同時に 期待や希望といったものは持たないことも意味する。
つまり 期待する時点で どんな状況 どんな自分も無条件で愛してはいないということだからだ。無条件とは いまの自分に対して だけではなく
どこで何をしているのかまったくわからない 行方不明な未来の自分に対しても ということなのだ。
もちろんこのような考え方をナチュラルに持ってなかった僕が100パーセントこの考え方に染まることなんて無理なことだろう。
でも 物事は100か0か 有るか無しか ではない。程度というものがある。
無条件に自分を愛する。この考えを自然になじませることを目指していこうと思う。
どこかを目指し行動することに一生懸命になる前に それ以前のまだ行動に移していない自分をそもそも否定せずに愛していることが自分を責めないコツであると大勢の人たちに受け入れられたら もっと人の世はらくになるのかもなぁ。そんな時代は来ないだろうけど。
パワポケ6の思い出
パワポケ6をプレイし
まだ小学生だった僕は
死の怖さや 消える命の儚さ、むなしさを少し理解したように思う。
タイムパトロールとして未来世界から現代にやってきた主人公は
ラストで未来へと帰る(ルートもある)。
未来に帰った主人公のアルバムでのセリフは
BGMの効果もあり
僕の心をひどく揺らした。
未来へ帰った主人公はタイムトラベル先で出会った人たちを思い返し 次のような心情を漏らす。
ともに過ごしたみんなが、遠い遠い昔にすでに死んでいる人たちだなんて、とても信じられない。もし望みが叶うなら、もう一度彼らに会いたい。だけど、それは叶わないだろう。
たしかそういう内容だった。
今ならタイムトラベラー特有の悲哀に注目してちょっぴり同情したりするのだろうが
当時の僕は純粋に死を意識した。
ゲーム本編で登場した気の良いおじさんやクセのある相棒、可愛い高校生の女の子は”すでに大昔に死んでしまった人たち”…。
アルバム再生時に出てくる こちらへ向ける彼らの笑顔が上記の事実により
ひどく悲しく寂しく儚いものに感じた。
タイムトラベラーが未来で 現実に実在するようになるのかは分からないが もしそのような人たちが出現するようになるとしたら きっと彼らはこのような複雑な思いで”既に死んだ人たち”と接するのだろう。
また 裏サクセスで勝手がわからずにバッドルート直行で島の兵隊に処刑された時。
あまりにもなすすべもなく
あまりにも一方的に
処刑場で射殺されてしまったことに子供の僕はただ恐怖し
急いで父が昼寝している布団に駆け寄り頭から毛布を突っ込んだ。
そうすると そばで寝息を立てている父の死さえもまざまざと意識してしまった。
さらに恐怖は募りただただ涙を目に貯めて父の近くで震えるのみだった。
無力に されるがままに 一方的に何かを奪われるのは とても怖いことだ。
■
もしできるなら、犯罪をした人と身体を入れ替われたらと思う。苦しくてしょうがなくなるだろうね、そいつ。
くだらない妄想だ。